野川北山とは

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野川家は四代、100年以上にわたり文楽人形をはじめ、劇人形、能面、人形制作をしている彫刻師の家系である。

「野川家の礎」

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野川家の初代、野川音治(初代 北山)は明治2年に山形県尾花沢市に生まれ、その後東京・蔵前の人形師として名を馳せていた、神保平五郎に弟子入りする事になる。十年余り血のにじむような研鑽と努力を重ね、弟子の中からただ1人、秘奥の術を伝えられ人形師を継承することを許された。

人形師として尾花沢に戻った野川音治は、北山の号で劇人形の創作と改良にあたるとともに、尾花沢をはじめ近郷の町の祭りで使われる人形の制作にあたった。人形師としての評判が高まるにつれ、その名声はすぐに新庄市にまで伝わった。

そして最上随一の祭りとして知られる「新庄まつり」の山車人形制作を依頼されることになる。

この頃から新庄に移り住んだ北山は、山車人形のほか、劇人形や文楽人形など多くの人形制作に励んだ。さらには野川隆光(のがわりゅうこう)の名で彫刻も手掛け、それらの作品は地元の寺社や素封家などに残っている。人形づくりだけではなく、風流人でもあった北山は、俳句結社を創設。「北陽社」と名付け、初代主幹となった。

その後、人形師野川家の初代である北山は昭和3年に59歳で生涯を閉じる。

「風流人 野川陽山」

野川家二代となる野川徳太郎(初代 陽山)は明治33年に尾花沢市で生まれ両親とともに5歳の時に新庄市に移った。
早くから北山の手ほどきをうけ、人形作りや彫刻を学んでいった。やがて父譲りの天才的な人形師に成長した徳太郎は陽山の号で劇人形や文楽人形、能面などの制作にあたった。

初代陽山はまた北山以上の趣味人で、書もたしなみ、画もよく、俳句俳諧は芭蕉の流れをくむ正風伊勢派を継承し、東京の春社庵系三森幹雄の古池教会の宗匠であるとともに、俳句結社「北陽社」の二代主幹であった。さらに謡曲は宝生流の師範であり、こうした幅広い趣味と教養が人形や能面の作品に反映されていた。

初代陽山の人形は、北山と比べてより現代的でリアルな顔立ちをしていた。
山車人形にもそれが反映されており、初代陽山の人形によって山車の迫力が増し、新庄まつりの評価も高まった。

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「人形師から能面師へ」

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その初代陽山の後を継いだのが野川正博(二代 陽山)である。6歳から陽山のもとで修行し、小学生で彫りと塗りを手伝い、18歳ですでに一人前になっていた。この頃体調を崩していた初代陽山は一時快方に向ったものの、その後昭和39年に亡くなった。

20歳で父を亡くした正博はこれにより人形制作などの一切を引き受けていくことになる。初代陽山の妻である(は奈よ)は自身も義太夫をたしなみ歌舞伎に精通していた。そのため人形制作の助言をするなど二人三脚で野川家を支えていった。

そして正博は21歳で二代陽山を襲名。人形師として活躍するかたわら、能面師としての道を追求するため高名な先生に学び、著名な能楽師に教えを受けるなどして、30歳を迎える頃には野川陽山の名は能面師として全国に知られるようになっていた。初代陽山は主に人形師として活躍したが、二代陽山は山車人形をつくるものの、能面の世界を主な活躍の舞台としている。

「技術と伝統を後世へ」

そして現在は二代陽山の長男、野川知孝(二代 北山)が野川家の歴史を受け継いでいる。
二代陽山が能面師として制作拠点を置く仙台市で生まれ、幼い頃より能面や人形制作をする父の姿をみて自然と同じ道を歩み始める。

「芸事の習い始めは6歳の6月6日」昔からのいい伝えだが、野川家では現在でもそれを忠実に守る。知孝も同じく言い伝え通りに6歳のときより二代陽山のもとで修行を重ねて、絵画、彫刻の基礎を学ぶこととなる。高校卒業後、本格的に二代陽山に師事し、知孝も二代陽山と同じく能面師、人形師として活動していくこととなる。そして平成19年、二代陽山から技術も認められ、知孝の作品が世間に多く出るようになり、また北陽社の創設から100年がたつことから二代北山を襲名することとなる。

野川家代々の歩みと同じく二代北山も能面師として活動しながら、最上地方や東北各地の祭り人形の制作や劇人形の制作も手掛けている。また少しでも多くの人々に伝統文化の技にふれてもらえるよう地元の小学校を訪問したりや市民に対し積極的に講演などを行っている。

野川家初代の名前を襲名すると言うことは、野川家の技術と伝統を全て継承し後世に伝えていくこと。その責任と重圧を噛み締めながら二代北山はこれからも一歩一歩精進していく。

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二代北山 プロフィール

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昭和52年 二代陽山の長男(本名 知孝)として仙台市に生まれる
昭和58年 6歳より二代陽山のもとで修行にはいる
平成07年 本格的に二代陽山に師事し能面師、人形師としての道にはいる
平成15年 新庄まつり人形「鎌倉権五郎景政」制作
平成16年 新庄まつり人形「左甚五郎」制作
平成17年 山形大学「エリアキャンパスもがみ」にて講師をつとめる
平成19年 二代北山を襲名
平成22年 玉井日出夫 文化庁長官(当時)に 野川北山・陽山俳諧集
      「彫琢」「新庄まつり 山車人形図録 」を献上
平成24年 新庄山車連盟顧問に就任

以後多数の能面、人形を制作し、現在まで山形大学「エリアキャンパスもがみ」の講師をつとめ、山形放送制作の「新庄まつり」番組内で山車解説をつとめる。

野川家系譜

野川家初代 − 初代北山(音治) 明治2年(1869)〜昭和3年(1928)
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   二代 − 初代陽山(徳太郎)  明治33年(1900)〜昭和39年(1964)
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   三代 − 二代陽山(正博) 昭和18年(1943)〜
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   四代 − 二代北山(知孝) 昭和52年(1977)〜

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