新庄まつりとは
■新庄まつりの起源と歴史
毎年8月24日~8月26日の3日間にわたり開催され、例年50万人以上の人出ににぎわう当まつりは、2009年には「新庄まつりの山車行事」として国指定重要無形民俗文化財に指定され、2016年には「新庄まつりの山車行事」が全国33の「山・鉾・屋台行事」の一つとして、ユネスコ無形文化遺産に登録されました。
歴史をたどると江戸時代の宝暦5年(西暦1755年)にさかのぼり、実に260余年の伝統と文化凝縮されております。
当時新庄藩の五代藩主であった戸沢正諶(とざわまさのぶ)公が、冷害による大飢饉に見舞われ死者が多数出たため、領民の士気向上と五穀豊穣を祈願するのに、翌宝暦6年(1756年)、戸沢氏の氏神である「天満宮」の祭礼を行うように命じたのが新庄まつりの起源とされています。
その当時は、城下の領民が家にあるものを持ち寄って台に飾り、町を練り歩いたのが原型でしたが、現在のように「日本一の山車行列」といわれるようになったのは、昭和の初めに新庄山車連盟が結成されたのを機に絢爛豪華になっていったのがきっかけです。
■新庄まつりの特徴
8月24日の「宵まつり」
町内の若連が夜の時間や休日を使い、約2ヶ月余りを費やして作り上げた「山車(やたい)」が、子供たちに引かれて動き出します。歌舞伎や物語の名場面に照明が入ると最早ファンタジーの世界!そして、新庄駅前の「アビエス」に向かい巡行が始まるころ、クライマックスに突入します。
8月25日の「本まつり」
24日の「宵まつり」とは打って変わり、藩政時代を思わせる古式ゆかしい神輿渡御行列が行われる「本まつり」。
「下におろう。下におろう。」の先払いの声のもと、神輿が町を練り歩く心身な儀式となります。神輿に続いて山車も夕方まで新庄市内一円を練り歩きます。
8月26日の「後まつり」
前日までパレードを展開した各町内の山車が、中心市街に勢揃いする「展示山車」。
囃子若連も参加して囃子の演奏を行う。各町内若連が精魂込めて作り上げた山車をじっくりと眺めたり、また一緒に記念撮影をしたりできる他、囃子若連の演奏も聴き比べることができる。
さらには踊り手が鹿子に扮して踊る萩野・仁田山鹿子踊(ししおどり)が披露されます。鹿子踊りは岩手全域でみられますが、全国的に見ても「カモシカ」を模した鹿子踊は非常に稀です。
また仁田山鹿子踊の鹿子頭は野川家の作品となっております。
■野川家の関わり
彫刻家としての初代野川北山は山形県尾花沢市で生まれ、東京で修行を積んだ後、地元で彫刻家として活躍するとともに、文楽人形や人形芝居に使う劇人形の制作も兼ねておりました。その人形の評判を聞いた新庄の方々が尾花沢に訪ねてこられて、「新庄まつりの人形制作を手がけてほしい」と依頼されたのが、新庄まつりに関わるようになったきっかけとなります。
「新庄まつり」の約260年という長い歴史のなかで、実に半分以上を野川家が人形師として関わらせていただいています。
初代のころは人形を各町に販売していましたが、新庄まつりの山車の出し物は毎年内容が変わるため、人形を毎年購入すると各町の負担が大きくなりすぎるということで、途中から人形を貸し出す形に変更となりました。現在、山車を出す町は20町ありますが、すべての町で野川家の人形を使っていただいています。